屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.121 スポーツマンシップのこと H15.06.16)

松浪議員が暴力団経営の会社から秘書給与を肩代わりしてもらっていたことが、表に出て辞任しないのかと問われ、「ネバーギブアップ」もスポーツマンシップだ、辞任しないと言ったことが報道され、スポーツをして名を挙げても、スポーツマンシップは学ばなかったようだと揶揄されている。

私はスポーツマンシップについて、正しい定義やそれが確立されてきた経緯というものを知らない。そういう私がスポーツマンシップという言葉に持っているイメージは、ヨーロッパの貴族のノーブリスオブリージと同根の精神ということである。スポーツマンシップが世間で称揚されるようになったのは、地位と財産があるものが内面発生的にそれに見合った高貴な振る舞いをする、それがスポーツの場では人の目に見えやすかったからではないかと思われる。

そうだとすれば、スポーツマンシップとは、誰かを真のスポーツマンだと称えるその誰かのあり方に対する評価として人が言うことである。自分がスポーツマンシップにのっとりと軽々に言うような、自分で決められる評価ではないように思える。ルールを守ることを超えて黙々と人として品を保つ努力をしている、そういう生き方が身についた人を、スポーツマンシップの人というのだと、私は思っている。

だから、ただルールを守るだけのスポーツの上手には、スポーツマンシップと言うに躊躇する。例えば元不良がチャンピオンになってしまえばスポーツマンシップありと言ってマスコミに称え持ち上げられる。私は心根が本当にスポーツマンシップかと疑問を持ってしまうのである。しかしそういう人間をも世間はスポーツマンシップを持った人間として見たがっている。そうあって欲しいと願っている。そしてそのスポーツの上手も望まれればそれにあわせた振る舞いをするようになる。大概の立身のためにするスポーツマンはそうではないかと思われる。

そうすればその振る舞いが世間に評価される。その段階で世間ではいわゆるスポーツマンシップありという評価が固まる。その状態がまたスポーツマンの生き方を変えていく。いつかスポーツマンがその望ましい振る舞いに義務感を感じるようになった段階で、それは本当のスポーツマンシップになると思われる。今のスポーツマンシップは世間の期待がまず初めにあるという面が多いように思える。

ところで、外部の評価にあわせた振る舞いをしそこなって、問題を起こすスポーツマンは結構いて日本よりアメリカの方がその割合は多いそうである。日本ではいわゆるスポーツマンシップをノーブリスオブリージ的全人格的なものとして評価する傾向が強い。それが日本のスポーツマンに強い縛りをかけているのかもしれない。しかし今の時代、内面発生的なスポーツマンシップは少なくなりつつあると思われる。だから振る舞いだけを真似ていたいわゆるスポーツマンシップは何かことがあると化けの皮がはがれることもあるのである。しかしことがなければ本物との区別は難しい。


 
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