屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.115 言葉遣いのこと H15.03.24)

多分どこの国や地方でも洗練された言葉遣いというものはあるはずである。それは承知の上で言っているのだから、以下のはなしはめくらが象の耳を触って象とは大きなウチワのようなかたちのものだと言うに似た面がある。

最近読んだ国語は大事というはなしの前振りに、幼少時代日本語の中で育たないとその影響は相当深刻だと、親について外国暮らしをしていた子どもが、帰国して高校に入ってから、同級生や教師とうまくコミュニケーションがとれず結局退学してしまった例が挙げられていた。

そのはなしの本論の結論は、日本人は日本語を、日本語を通じて日本人としての振る舞いや感性を、そして日本語で思考することを、子どものときからきちんと教えなければダメなのだ。日本とは、日本人とは、日本語の中にある、ということらしい。

北朝鮮に拉致され、米国人と結婚して20年くらい暮らしてきた曽我ひとみさんは、大人になってから拉致されたから日本語のニュアンスなどはよく分かっている。それでも記者会見などでの発言を聞くと、主語などを明確にした話し方が耳につく。他の人は知らず、自分はこうだとはっきり言う話し方である。これは夫との長い英語での生活の影響だと思われる。日本で大人になるまで育った人でも外国語生活の影響は有るようである。

また日本語の出来ない外国人の夫に代わって、雇い人に日本人の奥さんが指示を伝えるときの口調がきつく、それで雇い人が長続きしないというような噂ばなしを聞いたことがある。「・・・しろ」とは言わないのだろうが、多分翻訳口調で「・・・・しなさい」くらいは言っているのではなかろうか。これも毎日の外国語中心の生活の影響だと思われる。

大人でも影響があるのだから子どもはもっと影響を受けても不思議ではない。例えば「・・・・しなさい」というような、きつく聞こえる言葉遣いで他人に接する親を見て育つと、その子どもはいわゆる日本語を遣う周囲に対して無意識に自分たちは優越していると思ってしまう可能性がある。そして他の子どもに接したとき、自分が優越しているような振る舞いをすれば仲間とうまくいかない。

さらに親にいわゆる日本人に対する優越感があったりすれば、親の間にも反発感が生まれ子どもの世界に影響する。ハーフの子どもが小学校に上がって仲間はずれになったという噂ばなしを聞いて、私はこんな感じで幼少時代のバイリンガル生活の影響が出てきたのではないかと思っている。

最初のはなしの、幼少から外国で過ごし日本の高校に入った生徒が同級生や教師とうまくコミュニケーションがとれないのも、もしかしたらいわゆる日本語を話す人に対する無意識の優越感がその原因かもしれない。ディベートに長けていないいわゆる日本人に対し引くタイミングを誤って友や師の信頼を失ってしまうというようなかたちになってしまうのだと思うが、幼少からなじんだ外国語生活の影響という説に、私もそうではないかと思う。

さて、はなしは変わって指示を伝える口調のことである。私にとって鹿児島弁は外国語のようなものである。その鹿児島弁で育った人といわゆる標準語を使ってコミュニケーションをとる。どちらが外国人役かというのはお互い様だが、幼少から外国で過ごした人とコミュニケーションをとる場合に似ていると思えないことはない。私サイドから見てのことだが、先のはなしのように指示を伝えるときの口調に違和感を持った経験がある。

屋久島に来て数年働いていたホテルでは幾人かのマネージャー、勿論鹿児島生まれの日本人、が部下に「・・・・・しなさい」と言うのを幾度となく見かけたことがある。私の会社生活の経験では、ざっくばらんな間柄なら「やってよ」とか「やってくれない」と言うことはあるが、「・・・・してください」とか「・・・・してくれませんか」とか言うのが指示では普通である。依頼と変わらない感じだが場により指示とはっきり分かる。

号令なら「・・・しろ」と言うことはあるが、私は指示で「・・・・しなさい」と言われたことや、言った憶えはない。「・・・しなさい」は子どもに躾で言うくらいのものである。当地で指示するとき「・・・・しなさい」と言うのを耳にして、人がどやされているのを聞くような違和感があり、なじめなかった記憶がある。


 
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