屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.111 屋久島(63):カウンセリングのこと H15.01.27)

最近のある屋久島関係のメールマガジンによれば、屋久島に初めてというカウンセリングルームが出来たそうである。心理テストのようなものを受けさせて1人1人の状態を判断し、その人の症状に合わせて相談に乗ってくれるそうである。アロマテラピーの香りのなかでカウンセリングをして自己治癒力を取り戻してもらおうというやり方のようである。

私は会社時代、カウンセリングの訓練を受けたことがある。10人くらいで合宿し何の課題もない。みんなでなんとなくはなし、何かをしてみる。時に講師が話しに加わるが講義とか説教の類はない。カウンセリング的観点の意見を求めても突き放される。なにしろただみんなで1週間くらい行動自由で過ごすのである。

そこで自分が何を感じるかが、訓練の成否を分けるようである。カウンセリングとはということが頭にあっての訓練だから、時間を過ごすうちに人の言葉や態度に対し自分のなかで起こる反応を吟味し、自分の言葉や態度に対する他の人の反応を観察するようになる。反発や怒りや共感、感謝などの感情の交錯の中で自分を見直すことになる。しかし自分のことしか頭にない私はそれにいらついて、ボディブローがきいているのかという思いを持ったのはずっと後のことであった。

私はいまだどうあれば正解か分からない。まあこんなことかと思うことはある。人が悩むのはほとんど他の人たちとの関係のなかでのことである。例えば仕事での技術的力不足などのときに言ういわゆる悩みは嘆かわしいことではあってもメンタルヘルス的悩みではない。大概メンタルヘルス的には仕事が出来なくてどう評価されるか、先行き自分がどうなるか、という自分の思いに悩むのである。まず自分のことを考えるから悩む。人のことや仕事の中身自体のことを考えて悩むことはほとんどないと思われる。

自分の思いに悩んでいるのに自分の言葉を論破され激励されるのはつらい。カウンセリングの要諦はアクティブリスニングだとよく言われている。訓練ではそれに気づけば成果があったと言うことかもしれないが、私は大分後になってそう思うようになった。相手を受け入れ共感を持って聞き、こたえは相手自身が出すのを待つ。相手のはなしに対し答えを提供しないことである。会社などでは気にかかる人間と何気なく話すことで相手に意識がなくてもカウンセリングまがいが出来そうな気はする。しかし相手の方から相談を持ちかけられるほどの自分であるという自信がない。

そこで私は、世に言われる仏のような性質(「心広いやさしい人になること」、「いばらず誰にでも平等に接する人になること」、「観察力の鋭い人になること」)を持ちたいと思ったりしていたのである。(このことについては、「No.05 屋久島(5):田舎に移ってくること(H12.07.07)」の最後段に書いた。) しかしそうありたい気持ちはあっても実際は人に信頼するに足ると見られるほどの自分でないこと、過去も現在もかわりない。

屋久島で開業したカウンセリングルームはどの程度深刻な相談までカバーするのか知らないが、どういう経緯で自分の意思でお客が来てくれるかということには興味がある。アロマテラピーなどをするともあるから、もしかすると軽い気分転換サービスかもしれないが、それなら都会から来たり戻ってきた女の子に受けるかもしれない。

ところで軽いのりの気分転換サービスだとして、屋久島にこだわって移って来た人たちにもし受け出したとしたら皮肉な話になってしまう。屋久島の自然に癒しを求め来て癒されず、金を払って都会でも手に入るアロマ・エッセンスで癒されるでは、屋久島に来た甲斐がないと思うからである。


 
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