屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.94 屋久島(50):男側の言い分のこと H14.05.20)

屋久島にはその数は年配者ほど多くはないと思われるが若者も移住してくる。私が見かける機会のあった彼らはまじめで自分の気持ちに素直な感じがする。頑固な感じもするがそれは周囲への適応とか協調に疲れやすくそれを回避しようとする生来の性格からくるもので、本人たちもそれに悩みながらやっと屋久島にたどり着いたということかもしれない。なにも屋久島でなくても良いのだがたまたまそういう悩みが軽減される住み心地を感じた初めのところが多分屋久島だったということだとは思われる。

そういう若者同士の恋愛模様のはなしである。同じような人生への思いを抱く男女が互いに惹かれあって、一緒に住むようになれば結婚も意識し始める。しかし女性の親は心配である。まず遠く離れて女一人でどんな生活をしているか心配である。それがあろうことか男と同棲をはじめたとなれば、どんな男か、定職もないのに大丈夫か、たぶらかされてあるいは寂しさのあまり変な男にくっついたりしたのではないかと心配でたまらないと思われる。

娘の様子見にかこつけて男の品定めにやって来て、あばら家に住んでいるのを嘆き、仕事や定収入のないことを危ぶんで、気が気でない。反対したいところ山々だが、娘も屋久島に一人でやってくるくらいだから親の言うことを聞くわけはない。だから親はこの男でいいのだと納得したい、納得する証がほしい。一年の猶予を与えるからまともな将来展望が開け、そうしたら自分たちも祝福したい気持ちになる、今のままの男では不満だ、心配だといって帰って行く。

親は先のことまで心配なのである。だから生活基盤を固めることも自分たち流の生き方の一部だとして頑張って欲しい。またいい大人をいつまでも心配したくない、自分たちの老後生活に影響を及ぼさないように早くなってもらいたいという気持ちもある。裏づけのない口だけの強がりでは安心できないのである。

若い二人は屋久島に来て自分たち流の安らぎの生活を得たと思いきが、ここに至って親の言葉に思いを致せば節を曲げていわゆるそれなりの生活の努力をすることになる。いわゆる安定して食っていける生活のための生活が田舎暮らしということになる。それでいいのか、続くのか、私はその成り行きが気になっている。

さて、その現実生活の成り行きは興味ばなしとして眺めていればそれはそれでよいのだが、私にはこれまでのはなしで少々引っかかるところがあるのである。はなしは女性の親の思いのことである。子供は女ばかり、可愛がって育ててきた。それがよく分からない男とくっついた。その男は定職もない。学校でてからあちこち放浪生活。それで世の中やっていけるのか心配である。甲斐性ありやなしや。あれやこれやと男のことをあげつらえば、いわゆるまともな生活をしていない男は黙って聞いているしかない。多分そうだったに違いないと、一年猶予云々の話を聞いて私は想像してしまうである。

私には女と男の子供がいる。女の子の親の気持ちが分からぬでもない。しかし男の子の親の気持ちも分かる。女性は弱い、だまされたりあとあと不幸な結果になったら女性は不利である、一般にそういう傾向はある。だが自分の男の子が一方的に糾弾されては、その親としては立つ瀬がない。男の子の親も息子がどこかのあばずれに引っかかったのではないかと心配しても一向に不思議はないと女の子の親は思わなければいけない。また女の子の親は黙って言い分を聞く男あるいはその親の誠意に思いをいたすべきである。女の子しか持たない親はきついのではないかとそんな感想を持ってしまったのである。


 
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