だいぶ前のTVで鹿児島-屋久島路線の飛行機が今のYS-11(定員64人)からダッシュ-8(定員75人)という飛行機に2006年頃変わるという報道があった。プロペラ機だから今の空港施設で運航できる機材ということだと思われる。屋久島に投入されてから何年になるか知らないが、YS-11は2006年まで飛ぶとして飛び始めてから40年くらい使用されてきたことになる。ダッシュ-8が老朽化以外の理由で機種変更されないとすれば、機材としては今後そのくらいの期間屋久島路線に使用できると考えてよいと思われる。
私は屋久島空港ジェット化の運動の話があるということは耳に挟んでいたので、プロペラ機ダッシュ-8の採用の報道に接して、航空会社の判断はジェット化のメリットはないということになった、屋久島航空路機材のジェット化の話はこれで没になったと受け取ったのである。そういう状況のときに、先日突然集落総会の事前配布資料に「空港整備に関する意見について」というアンケート用紙が添付されており、書き込んで総会のとき持参し出して欲しいとの集落放送もあったので、いまさらなんのことかと思ったのである。
アンケート用紙によれば、空港整備の早期実現の署名運動をしているが、あわせて町民の意見を募りたい、4月末までに集落の事務所か役場に出して欲しいと書いてある。「賛成意見」、「反対意見」、「その他の意見」を記述式で回答するための空欄が用紙を三分割する形で設けられている。空港整備というものについては周知のことという感じになっている。多分ジェット化のことかと思うが、これからもプロペラ機が就航するのだからなにか他の整備を早急にしたいということかもしれないと、なんとなくすっきりしない。
インターネットで何か情報はないかと調べてみたら、あるサイトに上屋久町の「広報かみやく」に出た平成12年第3回定例議会報告を紹介している次のような記事があるのを見つけた。
8月23日には、屋久町長、上屋久町議会議長とともに屋久島空港拡張整備について、県知事と県議会議長に陳情を行いました。
この問題は、西之表市を含む熊毛地域1市4町で構成する「屋久島空港整備促進協議会」で、これまでも陳情・要望活動を行ってきましたが、県が策定する「次期総合基本計画」への位置付けや、国の平成15年度から始まる「第8次空港整備計画」にむけ、早急に積極的な陳情活動が必要だと判断したからであります。
県の基本的な考え方は、新種子島空港に目処がたってからということですが、基礎調査から17年が過ぎても未だに本格着工できない状況を考えると、これ以上待てないというのが素直な気持ちです。
屋久島空港をジェット機が就航可能な空港として整備し、町民の利便性向上と人や物の流れの促進で、地場産業などの活性化につなげたいと考えています。 (広報かみやくより抜粋)
そもそも行政として、ジェット機就航可能空港に整備することをすでに県に陳情しているのである。前にアンケート調査もなく陳情しているのに、今度はアンケートということはなにか特別以前と違った考えがあって、まず住民の意見を聞いてみたいのかとも思える。しかしそういう説明はアンケート用紙に書いてない。だからどういうことに賛成か反対かと問われているか分からずなんとなくすっきりしない。
賛成・反対などを問うアンケートは、普通一部住民の要望に行政が判断に迷ったりして、住民意向確認のためにするものではないのかと思う。その結果として陳情ということになるのではないか。多分住民意向が反映されているのかとの指摘があって手順が逆になったのが今回のアンケートではないかと思われる。
もし陳情の後付けならアンケートをとる前に、「町民の利便性向上と人や物の流れの促進で、地場産業などの活性化」のために「屋久島空港をジェット機が就航可能な空港として整備」することを、どうして「これ以上待てない」のか具体的にPRして住民に問題を理解してもらうことが大事である。先の陳情に当たってはそういう分析はやられているはずだから、どんどん町のホームページなどで情報公開したら良い。
やってしまってからただ人に良いか悪いか意見を聞くのは体裁を整えるためだけかもしれない。私はすっきりしないからアンケートに答えなかった。
私としてはジェット化で上京が乗り継ぎなしで出来るようになるなら歓迎である。しかし現実には「町民の利便性向上と人や物の流れの促進で、地場産業などの活性化」ということなら九州圏主体の近距離路線が対象ではないかと思われる。試みに福岡-屋久島路線が運行されたこともあるが定着の兆しはない。また屋久島空港は日に6便くらいしか飛んでいないのだからまず増便という要望が大きくなっても良いと思われるがそういう話は聞こえてこない。そういう状況での航空会社のプロペラ機ダッシュ-8への機材更新判断は「ジェット機就航可能な空港整備」の行く末を暗示しているのではないかと思えるのである。