屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.72  屋久島(38): 住む場所のこと (H13.10.08)

屋久島に「移住したいがどうか」と聞かれることがある。ライフプランにおける移住の成算の有無や家族の同意は自分で検討したり家族で相談したりすべき移住決断の条件である。離島は貸家は少ない、職もほとんどない、物価は安くはない、大病院も少ない、こういうことは田舎暮らしの本などに書いてある。私もささやかながら実情を当サイトで発信してきた。だからライフプランにはそれらも反映されていると考える。とすれば人に聞きたいのは、その土地に住んでみての気持ちの問題として住み易いかどうかの感想だろうと思う。そういう意味での「移住したいがどうか」の問いに対する私の答えのひとつが住む場所と住み心地についての以下の感想である。

都会育ちの人間が田舎のどういうところに居を構えれば良いか。屋久島の自然に引かれてとか、長年の間自分の人生で蓄積したなにかを大事にして生活したいと考える人にとっては気になるところと思われる。そういうことを考えもせず田舎暮らしを始めた私だが、住む場所について問われれば七年余の観察にもとずくその感想は以下のようである。その感想はあからさまな体験から出たものではない。目には見えないちょっとした心理的な感触が住み心地を決める。その感触から生まれたこの感想は他人から見れば想像の産物ではないかと思われる面もあるかも知れない。

地元の人と密着して親しく住みたい。田舎にとけこんだ、受け入れられている、というような充実感をも求める人は地元集落の密集区域に積極的に住もうと思うかもしれない。しかし積極的な自分の思いが通じるはずだと思わない方がよい。新住民に対する配慮というかなじまないことに我慢してくれることは期待しないほうがよい。地元の人大多数のなかに入るということはそういう面がある。だからUターンを除けば自分が寛容で我慢強いと思う人などには向いていると思われる。とけこみ受け入れられる状態は即ち一方的に自分が地元を受け入れるあるいはそう振舞うことにより成立することが多いと思われるからである。ただし有名人(地元が普段は付き合えないような金持ちなどを含む)はこの限りではない。地元の人も有名人と親しいことを誇りたいからこの種の人間には寛容である。だからあまり有名人の田舎暮らしの話しは参考にしない方が良い。

自分流の今までの生活を踏襲して、つまり田舎という物理的環境を求めて田舎に住みたい人は別荘地とか地元集落の密集区域を外れたところに住むのが良い。それなりの自分の生活パターンで過ごせる。しかし大多数の地元の人が住む集落密集地から少し離れているとは言え、一人感覚違いの生活をすることは興味の対象となるし自分では思ってもいない噂の種になることもある。そうだからかまず新入者はなるべく同じような仲間のいるところを物色する傾向がある。その結果、新住民の家は特定のところに集まるようになると見える。

我が家のある区域も数十軒すべて新住民である。そして特に初期に移住して来た人たちは団結が強いという印象を持ったことがある。このような地元の人と新住民、あるいは新住民の移住年代の新旧による住み分けのようなものは場所的にも仲間意識的にも段々進んでいくようである。新たに住み始めるにはなるべく最近移住して来た家のあるところあたりにする方が気が楽と思われる。

地元と新住民、新住民の既在住者と新参者、いずれの関係にせよ人数の多い勢力が持つ仲間意識の支配のなかでは少数勢力や新参者は我慢しなければならない。だが友人が出来ないわけではない。移住して来て初めは全てに寛容と我慢である。やはり周囲に受け入れられて無用の摩擦は避けたい。そうやっているうちにだんだん親しくなって互いに気に障ることを言ったりするようになる。長年経てばもう大体のことは気にならなくなる。だから移住した初期のころ数年間が住み場所選びの影響つまり気遣いをすることが大きいと思われる。その時期を過ぎれば良かれ悪しかれ周囲の自分に対する評価は安定するからかなり自分なりに静かに生活できるようになる。


 
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