屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.68  ケチのこと (H13.09.10)

私はケチである。落語で隣りにかなづちを借りに行かせた主人が貸してもらえず帰って来た小僧にじゃー自分の家のものを使えと言うのがあるが、それほどではないにしても私はケチである。ケチはケチなりに理屈はある。私は人からものを借りるのもあまり好きでない。特にただで借りるのは負担になることがある。借りるなら有料・レンタルを利用する方が良い。また私はほとんどローンを利用したことがない。

むかしのことだが、出さなければならぬ金を出すにもしつっこく計画をただしたりするから、仲間によほど金に困っていると思われてか、警戒されて「俺が金を貸す時は、もう相手に金はくれてやると思って出す。」などと、さも俺に金を借りに来るなとばかりにいやみを言われて悔しい思いをしたことがある。私は金はなるべく借りない主義である。また金を出すときにはその用途などをはっきり知りたい。それが嫌な目に会わない知恵である。好意は受けるも与えるもあとをひかぬやりかたがよいと思っている。

こういう私のものを貸すときの気持ちの一例を紹介する。私は一年に一回か二回しか使用しない器具をあるとき買った。貸してくれると言う人があったが借りるのは好きでないから自分で買った。車を人に貸して事故を起こされたら、車の損害だけですまない、被害者への賠償の負担がまわってくることもある、しかしそれ以上に買ったばかりの車を傷つけられたとか大事なものを傷物にされたという恨みのようなしこりが残り友情を損ない易い。そんな気持ちがあるから私は友知人からなるべく金品は借りないようにしている。

その私がその器具を買ったことを話しのついでにぽろっとある会合でもらしてしまった。即座に一人が「貸して」ときた。買えば負担になる。年に何回も使うものでない。空いているんだから貸してくれたって良いじゃないか。私は内心いやいやながら顔では笑って貸すことを承諾した。家に帰って気分が良くない。何の為に自分で買ったのか。年何回かしか使わないで、あとは人に貸してやる、ほとんど人の為に買ったことになってしまう。そして管理までしてやるのだ。ばかばかしい。それが分からず簡単に「貸して」という。それが我慢できないという気分なのである。「貸して」と言う前にこちらの気持ちも考えて欲しい。そしてそういうことを考える自分に対しても嫌悪感が湧きあがる。これがケチな私のものを貸すときの気持ちの一例である。

妻とこういう気持ちについて話したことがある。妻は自分はケチだから何か買っても貸したくないものは最初から人には言わないようにしているということである。趣味のものを我慢しながらお金を貯めてやっと苦労して手に入れ楽しもうとしているのに何の努力もせず見ればすぐ貸してと言う。そういう人に限ってものの価値(持ち主の思い入れ)を知らずぞんざいに扱ったりする。また自分流に使いこんだものは人が使うと壊れ易い。それであとで気まずい思いをするのも嫌だから新旧を問わずやたらに貸さないということらしい。

また妻は本については特に人に貸さないようにしているとのことである。妻は紡ぎや染織の本を何十年かにわたって集めてきた。集める努力と時間の成果である。かつては「貸して」と言われると断れず貸していた。なかなか返してくれない。催促する気持ちは嫌なものである。でも催促するとどこかへ行ってしまった、もう少し待ってと何ヶ月も返さない。返して来た時にどっかのものの間に挟まっていた、などとシャーシャーとして言う。汚されることもある。人の大事にしているものを借りてその意識がない。何冊かは返って来なかったものがある。だから今は見に来たら見せるが貸さない。妻のケチは私より質がよいようである。


 
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