No.63
屋久島(35):エクセル使えるかのこと (H13.08.06)
当地の会社に勤めていた時のことである。30そこそこの若いのが粋がって周りに自分の有能さをアッピールする素振りでノートパソコンを持ち込んでいじっている。当地ではもうPCをいじれることが作業員の差別化に繋がるなら時代を先取りしている。世間ではディジタルディバイドはまだこれからである。
そんな職場でその若いのからおまえはエクセルは使えるのかなどと小馬鹿にしたようなことを言われた憶えがある。なんと答えれば良いのかと口ごもってしまった。それなりの会社の技術者は大体PCでワープロや表計算は日常茶飯事である。技術的なことでは小型のコンピュータから大型までコンピュータの歴史をなぞるように使ってきたからPC時代もいれれば私も30年くらいはコンピュータを利用している。いまはむかしシステム開発の成果を論文に書いたこともある。その私にエクセルは使えるかと聞かれると苦笑いが出て口が動かない。そんな思いをしたことがある。
年をとって田舎に来て過去を誇って偉そうに振舞う人間はたいした人間ではない。リタイヤしたら全ての時間が個人の時間になる。目立たなかった人としての生き方がそのままその後の生き方としてはっきり外から見えるようになる。私はそれを意識して「ものを良く見とおすようになりたい、そしてそれを誇らず分け隔てなくやさしい振舞いができる、そういう人になりたい」と思ってやっている。しかし私の現実はそうでない、だからこれは努力目標である。
そう思ってやっていると今は自分で語れば自己の過大評価になってしまう過去をPRすることは恥ずかしくてできなくなった、そして自分の力のなさを知るにつけやさしい振舞いがだんだん出きるようになって来たのかも知れない。その成果が外から見ればなにもできない、いつもニコニコのおっさん、エクセルはできるかと聞かれてどーかねーと言う無能なおっさんであるということかもしれない。
これは努力の甲斐があったとうれしい、しかし反面今までの社会と仕事のなかで生きてきた自分が醸し出すものが無能なおっさんのイメージでしかないということに私は内心悲しい気持ちもしているのである。
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