屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.60  オリンピックのこと (H13.07.16)

7月13日モスクワのオリンピック委員会総会で2008年のオリンピックは北京に決まった。

その報道を見ていてシドニーオリンピックの時あるTV番組で以下のようなコメントを聞いたことを思い出した。今はもう戦争をやる時代ではなくなった。オリンピックは戦争の代りに国威をかけるものである。ナショナリズムを発散させる戦いの場である。

以下それを聞いた時の感想である。

ゲームには戦争と同じように作戦がいる。こすからい駆け引きもいる。審査員のいる結果を計測できないゲームでは特に事前の風評形成情報戦やだましのテクニックも必要である。そしてまた健全な身体を持っていても健全な精神を持たない者がずるをしてでも勝とうとするようなことも発生する。ドーピングその他いろんな姑息な手をつかう者がでる。

だから競技ルールなどが細かくなる。例えば慣例的にやってきた泳法と異なって潜水ばかりする泳法をやるものが出る。しかし競技は発明と違って新考案を競うところではない。同じやり方のなかで身体鍛練の達成度を競うものである。だからこの種目はこのように泳がなければと細かく決めないわけにいかなくなる。薬のチェックも厳しくなった。鍛えた身体能力では勝てないからと薬で身体能力を作るものがでる。それでは薬の効果を競うものになるから薬を禁止する、使用の有無を調べないわけにいかなくなる。

それが個人のレベルでやられている間は戦争の代りとは言うまい。しかし国威高揚を目的とした国家対抗がエスカレートすればそのうち国ぐるみで勝つ為に手段を選ばずやるようになる恐れがある。国力が強ければ批判を受けてもそれを正当化するところも出て来ないとは言えない。そういう面があるからメディアは戦争の代りと言っているに違いない。

なぜそう言うかといえば戦争は相手を負かし自分の意思に従わせることを本来目的とした政治行動であり、その手段を選ばないから戦争と言うのである。オリンピックが国威高揚を目的とした戦争の代りと言うならば目的達成が優先する。そのために手段を選ばない誤れる愛国の輩が出てくる可能性は高いからである。現実に出た国もある。

そういう動きにメディアが追従しオリンピック戦争論を本気で唱えると歯止めがきかなくなる。わが国のメディアは単純に戦争とゲームのアナロジーからオリンピック戦争論を唱えているとは思えない。

健全な精神は健全な身体にやどる。強い身体を持たねば健全な精神を貫くことは難しい。だから身体を鍛えよう。そのためのスポーツだと中学の時習ったような憶えがある。しかしいわゆるスポーツというものの目的が金儲けなら商売であり興行である、国威発揚なら政治であり軍事である。メディアは今オリンピックの実体と本質を見抜いた、その結果がオリンピック戦争論であり、戦争論を唱えて見せることでメディア自体への警鐘としているのかもしれない。そうなら幸いである。


補足: 他の一面のこと (H16.05.05)

日本人はオリンピックなどの国際競技はスポーツの清い祭典だと思い込んでいる人が多いが、国際競技は勝負は二の次で、参加し諜報工作活動を成功させることに真の意義があるという意見を最近見かけた。各国は一見役職員や報道員の顔をしたスパイを多数送り込んで諜報・工作・調略に明け暮れる一面があるらしい。もう一つの国威をかけた戦いの場と言う面があるらしい。


 
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