日本の国が良くなることを願って、新総理がうまくやってくれると信じたい。信じないで足を引っ張っていてはうまくいくものもいかなくなる。そういう観点からの感想である。
前の小渕総理は総裁選前に候補者そろって出演のTV番組で言うことを聞いていた時の印象では具体的政策は感じられなかった。自分はまとめていく力があるから私にやらせてくれと言うのが最大の主張だった様に憶えている。なんだか頼りないなと思ったが、選ばれてからは矢継ぎ早にいろいろな施策や立法を行い評価が就任前にくらべあがった。多分内心自分なりの思いがあったが、敵を作らず自分の世になったらああしようこうしようと思っていたのではないかと今になってみれば思えぬこともない。
小泉総理も総裁選での政策主張には具体的な感じが少なかった印象がある。総裁選だから自民党のために誰が良いかという選挙でもあるのだから政策ではなく自民党をどうするということが争点になってもいたしかたない。総裁選とはそういうものである。具体的政策を示さずとも総理になったら自分の思っていた施策を世の政治通の意表を突いて効果的に実行してくるのではないか。各種改革会議で検討する手法は小渕元総理のブレーンを活用し速攻する手法と同じ感じがする。実行スピードはあるのではと思われる。
亀井派との手打ちや政調会長への麻生氏の起用を見れば、経済政策は自民党みんなたいして変わりはないのだと思われる。小泉総理は柔軟に現実に当たると思われる。経済立てなおしが最重要課題だということにかわりはない、だが施策が思い通りに行かずマイナス成長も覚悟しておかなければならぬというのは正直な言い分である。絶対マイナスにしないと言いながらも結果はマイナスになることはあるのである。小泉総理は自分のものを考える起点を理解せよと言っているのだと解釈した方が良い。治にいて乱を忘れずで喜ぶべきことである。
小泉総理は長期構想を持っている。国というものはどうあるべきか、どう運営されるべきかを問おうとしている。その考えについては特定の思想にとらわれず国民の議論を重視して柔軟にあるべき姿を明確化していきたいと思っているのではと思われる。その国民に分かり易い言葉を使う姿勢からそう思える。その精神を失わなければ大丈夫である。今の勇ましい言葉は扇動性ではなく純心性の発露であると信じたい。内容はこれからである。やれるものをやることから始めれば良い。
そのまず手始めが脱派閥である。派閥にとらわれない人事である。派閥の長に相談せず人事をしたら派閥の長が怒ったが、派閥にとらわれないという日本語を理解しない人間がいることが問題だと実例をもって示したのである。派閥から一本釣りされた能力ある人間を派閥が全力でバックアップして国政に寄与させる、そうあってこそ国民に範たる政策集団なのだ、まず隗より始めよということなのである。国のあり方を論ずるにはまず政治の信頼ということである。その端緒を示したと信じたい。前述の経済政策は自民党みんなたいして変わりはないとの印象が派閥隠しと隠れた権力構造の存在証明でないことを信じたい。
小泉総理の所信表明を聞いての野党党首のコメントをTV放送を見ていつもそういう場面で感じる奇異な感じを持ってしまう。感情的というか、こき下ろすというか中味のない言い捨て言葉は聞き苦しい。野党だから批判するとか党勢拡大狙いだけの発言や、現実よりは思想の為の政治というイメージから抜けきれない一種独特のもの言いは、国民にあきられている。野党も考える必要がある。
民主党は小泉総理の政策は民主党の主張丸呑みだと言っている。自党の主張が国家政策となったのならお手並み拝見ではすまされまい。出来なかったら民主党が政権を引き継いでやるでは情けない、小泉政権で政策の実効があがらなければ民主党の責任だというくらい自党の主張に自信を持ってもらいたい。
以上後で本文は小泉総理誉め殺しだったといわれないように願っている。