屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.37  文句ばかり言うこと (H13.01.29)

ホームページを始めてから半年以上経過した。いろんな話題を書いているのだが文句をつけるような内容が多い。自分でもそう思う。

自分が問題と思うこと、即ちおかしいとか、いやだとか感じる事柄が書きたいことなので当然の結果ではある。感動したり良い目にあったりしたことは自分にとって問題ではないから、よっぽど強い印象が残っていないとなにか言おうという気にならない。

妻がむかし子育てに苦労して、親の為のある訓練を受けたことがある。そこで良いことは時とともに記憶が薄れて行くが、いやなことは何時までも記憶に残りそれを引きずって生きていくことになると教えられた。訓練で自分の一番いやだったことを発表するのは容易だったが、うれしかったことははっきりと言うことが難しかったそうである。

私のホームページで文句をつける話が多いのもそれと同じことかもしれない。今までにいやなな思いをした記憶が今でも自分のものの見方や感じ方の根底にある。いやだったことはなかなか忘れられない。今出会った事柄にむかしのいやな記憶が絡まってくる。今の自分にはむかしのいやな感覚を思い出させるきっかけとなる事柄が問題として意識されることが多いのだと思われる。

文句をつける話は、ある種の神社に似ている。いやな人間を死に追いやって、後でたたりを恐れてその人間をまつる神社を建てる。その発想と似ているところがある。もしかするとわるい思い出に煩わされなくなるかもしれない。

 

補足1: (上記の「文句ばかり言うこと」に対する投稿メール)

怒らないで読んで下さい (by つわぶき) (H13.02.01)

自分が問題と思うこと、即ちおかしいとか、いやだとか感じる事柄が書きたいことなので当然の結果ではある。

そういうコンセプトならそれでもいいと思います。世の中に警鐘をならしたいと、「これでいいの?」と固まってしまった観念や風習や行動様式に、動執生疑を起こすことは、「文句つけ」だけに留まらない意味もあると、思います。

感動したり良い目にあったりしたことは自分にとって問題ではないから、よっぽど強い印象が残っていないとなにか言おうという気にならない。

感動は対象があって起こるもので、たとえば夕日を見て美しいと感じることは夕日という存在と、それをみて美しいと思う心、感性があって、初めて美しい夕日が、あるし、とても良い人にあって、人生の美しさを感じたり、その人の尊い行いに、自身の心が洗われるような感動を覚えたら、その人は生涯忘れられない人になると思います。自分に関係がない、といえないのではないでしょうか。

私は、この屋久島に住む前も住んでからも、感動する自然や感動する人々に沢山めぐり合えました。そのたびに、(Yさんは、きっと笑うでしょうか?)生きていて良かったな、と思うのです。そんな、いい日は、夜寝るときに、いろんなすばらしい人たちの言葉や笑顔が一緒に布団の中に入ってくるみたく、暖かい思いの中で眠ることが出来ます。

批判精神も大事だと思います。要はバランスでしょうか?

今までにいやな思いをした記憶が今でも自分のものの見方や感じ方の根底にある。いやだったことはなかなか忘れられない。今出会った事柄にむかしのいやな記憶が絡まってくる。

簡単に消せないほどつらい、経験だったのでしょう。それについては、何をいう資格もないかもしれませんが、昔のいやな記憶を、今に絡ませないほうが、いいとおもいます。

「本当の客観性は、好意からしか生まれない」という言葉を聞いたことがあります。

 

補足2: 投稿メール「怒らないで読んで下さい」に対する感想

投稿メール「怒らないで読んでください」を読んでの感想である。投稿があってすぐ書いたため感情的になっているかもしれないと冷却期間をとっていたのだが3ヶ月くらい経ったので出してみる気になった。

客観性のこと (H13.05.22)

投稿メールの内容を自分なり解釈すると以下のようになる。「問題を論ずることに偏るのはHP作成のコンセプトだからそれはそれで良い。しかし感動することは自分にとって問題でないとはいかがなものか。感動する気持ちも必要だ。批判精神と感動する心をバランスよく持て。むかしのいやな記憶を引きずって悪感情から批判するのはよくない。そういう発言は客観性ある発言とは言えない。」そういう意味のことが書いてある。

文章の最後は「本当の客観性は好意からしか生まれない」という言葉の引用で結ばれている。文脈からみてその前の文章はその言葉を言う為に書かれている。その言葉を引用することによって「悪感情から批判するのはよくない。そういう発言は客観性ある発言とは言えない。」という私への批判となっている。

私は言っていることにではなく、その引用句の使い方に引っかかってしまった。「本当の客観性は好意からしか生まれない」という言葉はきれいである。この言葉はそれが使われたもとの文章において真実を述べていたと思う。しかし今回の文脈で引用されるともとと違った意味になる。おまえは好意的にものを見ることがない人間である。そのおまえが言うことは本当とは言えない。そう言っていることになる。だから「怒らないで読んで」と言っている。

まず客観性というのはどういうことかはっきりしておきたい。客観とは自分以外の人の主観である。人も言う。我も言う。それが客観性確立への最初の一歩である。一人の論者と一人の反論者の論議が共通の認識に達すれば二人の間では客観性は確立される。しかしその認識が大勢の間で支持されなければ世間では客観性があると言わない。大勢の人の主観がある事柄について共通するときその事柄は客観性があるとその大勢の人即ち世間で認められる。

だから一対一の間で一人が言うことに対しもう一人がそれは客観性がないと言う場合は、おまえの言っていることはおかしいと言っている。そしてそう言う責任を世間に転嫁しながらそう言っていることと同じである。

ところで大勢の人が共感することすなわち客観性は「好意からしか生まれない」のであろうか。仕事をしていた時に物事の適否を判断するときに極端化して考えてみるのが良いと勉強したことがある。極端な例で考えて見る。

ホロコーストはナチの犯罪行為であり、それを憎み断罪することは客観性のある事柄として世間で受け入れられている。その客観性は好意から生まれたのだろうか。どういう好意からこの犯罪行為を憎む気持ちが生まれたのだろうか。私はホロコーストに対する批判と断罪は悲しみと悔しさと怒りと嫌悪感から生まれたと思っている。

また、私は『「本当の」客観性』という言葉が分からない。その言葉がもとの文章を離れ今回のように使われると、文脈からみて大勢が良しと思っていること(本当でない客観性)に反して一人であっても好意から言うことであれば本当は正しい(本当の客観性)と言っているように見える。本当と決めるのは本当が分かっている本当と言っている人しかできないからである。その人が本当でないといえば本当でない。即ち自分は好意で言っているから自分のいうことだけが正しいと言う独善的な世界が見えてくるような胡散臭さがある。

表面的には私のいうことを「本当でない客観性」即ち「見せかけの客観性」だと言いたかったのだと想像はする。しかし私は初めから「偏見ご免」と言っている。客観的に見せかけようと初めから考えていない。

人の動きを規制するきれいな言葉を使って自分の思いを遂げようとする、自分の行為の正当性を主張する、そしてそうしていることを意識していない、当たり前のことをしていると思っている普通の人間。そのしている事柄を私は邪悪性の発露であると言っている。それを言い換えておかしいこと、いやなこととも私は言っている。自分がそう感じるその類の事柄に私は関心がある、それを見える形にしたいと思っている。

ついでに投稿メールでは「問題」という言葉について誤解がありそうな感じがする。あるべき姿と現実の姿の差異を問題という。問題解決の本などにでている。一般に現実の姿の方がレベルが低いときに使用される。だから感動するような自分の思っていることより素晴らしいことに問題があるとは言わない。解決すべき課題を含んでいないからである。私は感動しない人間ではない。HPには感動したことより問題と感じることを書きたいと思っているのである。


 
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