屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.30  屋久島(20):うしろめたい気持ちのこと (H12.12.10)

ここのところトカラの十島村が使用済核燃料中間貯蔵施設設置場所の候補として浮上してきたようである。種子島にという件では近隣市町村で反対運動が盛り上がっているので他の場所を物色中で十島村がその対象になっているらしい。トカラは晴れて空気が澄んでいる日に我が家の近くの高台からも見える。

種子島のときもそうだがトカラでも私は施設の設置に反対である。理由は全くの個人のエゴである。身の近くに物騒だと言われるようなものは造って欲しくない。気持ちが悪いのである。だから反対ではあるがなんとなく後ろめたい気持ちがついて離れない。後ろめたい気持ちは以下のような感じである。

・東京電力などのPRを見ると今日本の電力の40%くらいは原子力と言われている。だとすれば直接原子力の電気を利用していなくても多分私たちの生活の大体40%は原子力利用の恩恵を受けている。屋久島でも国からの地方交付金しかり、日々利用の食品から物品までその割合にばらつきはあっても原子力発電の電気を使った活動の成果や産物でないものは少ないことになる。糞が汚いと言いながら糞を食っているという自己矛盾を感じて落ち着かない。

・原子力は本質的に危険である。原子力利用はいずれ中止しなければならないと思う。屋久島くらいなら風力発電で賄えそうな気がする。しかし私には今すぐ日本全体で原子力利用をやめるとしたときの代替手段が思いつかない。代替手段の整備が必要で多分それまでは原子力は使われことになる。廃棄物も出るはずである

石油はあと500年は大丈夫だとの話もある。石油でいけるとして、原子力を止めると決めても止め終わるにはドイツの例を見ると長い年月がかかるらしい。廃棄物は止めると決してからも出ることになる。

だから私は貯蔵施設は必要なのだと思っている。私はどういう代替手段にどういうプロセスで転換すべきかまた貯蔵施設はつくらないですむのかについての考えあるいは知識を持っていないから反対はするがだだをこねているみたいなものですっきりしない。

また貯蔵施設を造るとして日本のどこに造ればいいのか。なにを基準に決めればいいのか。それに対しての考えあるいは知識も私は持っていないから反対はするがこれもだだをこねているようですっきりしない。

・要するに自分の近くはいやだからあるいは場所的に危険がありそうだという話しがあるからどこか他の場所にして欲しいと思う。しかし問題解決の目途が見えないものに反対しているようで後ろめたい。反対ということはよその場所に回せということになる。よその場所の人だって自分のそばのこととなればいやに決まっている。何か理由をつけて反対する。

・みんながいやだが必要なものは誰かが我慢して受け入れなければ解決の方法がない。ダム建設で故郷を捨てた人は多い。貯蔵施設がどうしても必要で近隣に設置と決した場合そこが最適最善であるという決定理由が納得のいくものなら私もダム用地の人たちのように土地を捨てることになっても従う覚悟はある。

でも今は自分のそばに物騒なものが出来るのはいやだから反対と言っている。それで通るならそれが良いから反対と言っている。問題は解決しなければと思う、しかし自分は埃をかぶるのがいやだと言っているのだから後ろめたいと思うのである。

・ところでトカラのことだが、立地は自然災害が予想されるような危険なところにはいくら誘われてもしないだろう。そんな技術的な判断もできない馬鹿ものが計画に携わるとは思えない。すでに日本の「原子力は安全」の思いこみは過去のものである。誰も日本を危険にしたくてやっているわけではない。それは信じて良いと私は思っている。だから誰かが言っている火山の危険が本当ならトカラはないと思っている。


 
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