屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.28  加藤政局に思うこと (H12.11.26)

11月21日早朝森内閣不信任案が否決された。20日自民党主流派優位の予想の中それまで100%勝利と豪語してきた反主流の加藤・山崎派が敗北を認め本会議欠席を決めた時点で国民には勝負が見えた。敗北予想がはっきりしてきた時点から加藤派小里氏が主流派野中幹事長と何回か会談し落としどころを探ったがまとまらず反主流派は本会議欠席と決したようである。

加藤氏は派内同調者に敗北を伝え本会議に欠席するよう説得しつつ自分と山崎氏は本会議に出席し賛成票を投じると言った。離党覚悟のようであったが結局は周囲にいさめられ涙を流しつつ無念の欠席という形にした情けない結末だった。

加藤氏の作戦は成功しなかった。その時に涙を流しているのを見て私は面白いと思った。負けを見るその時のことを考えていないように見えたからである。日本人は昔とやりかたが変わっていないようである。負けるということは念頭になく勝利のシナリオだけで突き進んできて負けると解ったらもうあとが続かない。

何だか昔の帝国陸軍のイメージである。状況や戦力に不確定要素があるのにただ勝つという思いこみで作戦を遂行する。机上で参謀が自分たちに都合の良い条件だけならべたてて作戦をたてていたのと変わらない。今回は軍勢も帝国陸軍のように万歳突撃する精神も涵養されていなかった。

総理になりたい。そういう企図を隠しながら戦うのも一つのやり方である。それならそれで成算ある作戦をたてなければならぬ。今回の作戦は企図を秘匿できず戦況を支配することができなかった。加藤氏は良い軍師に恵まれなかったかあるいはいたかもしれないが見出せなかったと見える。自分の不徳不明を恥じるしかない。

TV報道を振り返れば反主流派が不信任案賛成投票することを条件に可決されるか否決されるかのシミュレーションをやってばかりであった。反主流派が負けとなれば不信任案あるいは本会議は無意味なものになる。反主流派が負けと決する場合の読みに欠けていた。TVでさかんに「なんで」と言っていたが「なんで」では困るのである。こうだからと言えない報道も情けない。勿論当事者の加藤氏にも負けと決したときのシナリオが無かった。だからあとは涙するしかなかった。

安易な作戦で戦う。こういうことは今の日本でもよく見られることである。苦境に陥って報道を賑わせている企業を見れば解る。勝つことばかりに目がくらんで自分たちに都合のよい条件ばかりを取りこんだり自社を過大評価して経営戦略を立て、それが失敗して苦しんでいる。失敗したときや不利な見とおしのことを考えておくのも作戦のうちである。

会社の仕事でもよくある。需要見とおしや市場動向を報告すると社長が君の予測は気弱であるなどという。そして派手な成果が上がるぞという心地よい報告をあげた者の案を採用する。しかし時としてというか大体結果はその様に行かない。でも迎合した計画者が難じられることは無い。誠実な計画を提案したものは社長の決断の失敗を知る人であるから疎んぜられる。こういうことはよくある。

もしかして加藤氏は誰かの甘言に乗ってしまったのかもしれない。今は時にあらずと諫言する派内非同調者は去ってしまった。だから自分の不明を恥じて涙したのかもしれない。

今回の政局は加藤氏自らの作戦かあるいは誰かが作戦をたてたのかも知れないが泥臭さ(現実の読み)に欠けている。こういうものは奇襲作戦が必要なのではないのか。また作戦準備も十分にした形跡が無い。実戦は万全を期しても勝利は簡単ではない。加藤氏にはそこのところに対する判断が甘かった。

すぐれた評論家が実務をよくこなすとは限らない。高橋尚子のマラソンコーチ小出氏がマラソンに出ても優勝できるわけではあるまい。評論家は評論家としてその頂きをきわめるという生き方がよいかもしれない。

以上結果がわかってから偉そうに言ってみたというところである。言うは易く行うは難しであることは承知している。


 
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