屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
                     Home > 目次_top  >  記事

No.14 裏読みが過ぎるとのこと (H12.08.20)

最近裏を読みすぎではないか、過激ではないかと言われることがある。一人は妻である。あたしの世間が狭くなると言う。一人は息子である。こちらは私が暮らしにくくなるのではと心配して言ってくれる。あとは誰とは言わない。

だからちょっと言い訳をする。私は「田舎に移ってくること」でも述べたが、自分で言うのも恥ずかしながら、人を威圧することなくやさしく生きたいと願っている。だから多分近隣ではおとなしい人間と思われている。まあ、なめられていると言ってもいい。しかし声高にもの言わぬ人間はなにも感じないわけではない。

私はひねくれた見方をしているのではと思わぬこともない。またインタネットの一方的側面を利用して楽しんでいることも否定できない。しかし虎視眈々と人のあらやおかしなことを探しているわけではない。また何時もなにかにねらいを定めて見ているわけではない。目や耳に入ることをさらりと受け流しているだけである。

たまにそういう中でひっかかるもの、腑に落ちないことを感じるときがある。例えば危険であり、ずるさであり、矛盾であり、見下しであり、ごまかしであり、独善であるようないやな気分にさせるなにかに引っかかる。

そんなときにはそれに意識を集中してしまう。そしてよくよく観察してしまうのである。(人により引っかかると感じる感じ方は異なると思う。その感度はその人の生き方の反映である。だから私の偏見だと言われても反論しない。いろいろ人はいるから感じない人は感じない。しかし車の運転免許講習で危険予知能力を磨けと言われるのと同じで感じるほうが世の中を安全に暮らせる。)

観察の結果、引っかかったことと、その時の状況や今までの流れ、人の態度の変化などを総合的に考えて、こういうことだったんだと理解する。

これらはそんなに時間がかかるわけではない。大体発生している状況と平行的にやっていることが多い。そしてその場での自分の態度を決めている。

言葉にすれば以上の様なことだがこれは殆どの人が意識するしないにかかわらずやっていることだと思う。皆と違うところがあるとすれば感じたところを面と向かっては言わないが、だからといってそのままにはしないところか。後でHPに書いたりしてしまう。私は弱虫だから面と向かって言う勇気がない。だからこうなってしまう。

以上言い訳である。が、今までにこれに類する行為で友を失ったり不興を買ったこともある。これではだめだと反省することがないわけではない。

私は問題点ばかりに感受性が有るわけではない。かなり涙もろいところもある。琴線に触れることに遭遇してみたい。子供たちをもっと誉めて育てれば良かったとの反省もある。感心したり賞賛したい。そういう記事を載せることも大事だとは思っている。


 
 Home   back