屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
                     Home > 目次_top  >  記事

No.13  屋久島(11):あたしゃあそこで・・・のこと (H12.08.14)

昨日13日新盆と兼ねて父の一周忌の法要をした。父は昨年8月23日亡くなっている。父は危篤と最初言われてから約一月もった。離島でこんなに長くもつと東京方面から縁者がかけつけて亡くなるまでそばにいることは現実的に無理である。

葬式は私たち夫婦だけでだした。特に連絡はしなかったが近隣の方々が集まってくれ私たちとしては気持ちのよい通夜、告別式だった。近隣の方々には感謝している。

屋久島で死ぬとどうなるか。葬式は葬儀社がある。金をかければそれなりに豪勢な葬式を出すことは可能である。私たちは質素なものだったが不満はない。だが火葬ではわびしい思いをした。

火葬場はある集落の奥の国有林の中にある。伊丹十三の映画「お葬式」の火葬場と雰囲気は似ている。こちらは外観白塗りである。寂れた感じはその分やや少ない。内部は勿論今の都会のようなピカピカ光った大理石の壁と床はない。燃焼室扉も重々しさがない。点火ボタンもない。しかしそれらは致し方ない。多分時代が違う。年金融資で造った当時はそれなりのものだったのだと思う。

しかし運用面でわびしさを感じさせる。まず汚い、清潔感がない、即ちあまりきちんと整理清掃されていない。点火は親族が裏の部屋で油を染み込ませた布のついたきたない鉄棒に火をつけバーナーに突っ込む、その部屋も汚い。

そしてさらに職員はそれなりの姿勢は保っていたと思うがなんとなく場にマッチしない。遺体や親族へのいたわりが感じられない。収骨の時職員が骨を床に落としてしまったがその対応動作にもいたわりの風情がなかった。

2500円だし焼くときしか職員が来ないらしいからしょうがないか。しかし親しいものをやっぱりきれいに気持ちよく送りたい。

近所の引っ越してきた奥さんが先年誰かが亡くなって火葬場に行った後「あたしゃあそこで焼かれたくない」と言っていたそうである。多分送る気持ちと現場の状況がそぐわないためにそういう言葉が出たものと思われる。

焼くのも儀式である。通夜、告別式は残った人や関係のある人が気持ちを表し、また通わせあうためにある。死んだ本人が直接その身に受ける唯一の儀式が焼かれることである。生前をともに過ごした者としてはその場所や道具さらに振舞いにもっと親しい人を送る気持ちを感じたい。

金は10倍、いやもっと払ってもよい(困った人から取れとは言わない、それは気持ちでよい)。運営を葬儀社に委託したらどうか。商売となればメンテナンスやサービスがよくなるのではないか。

私は死んだら海に散骨でよいと思っている。家族は核家族化し、仕事の場も広がった。日本中、世界中に移り住むこの時代、墓があると墓参りや墓守りが大変だ。日本にいればお盆には墓参りで渋滞も起こる。墓なんかなくてもよい。

生きている今の意識が骨にもあったとすれば、じめついた墓のしたに納骨されるのも気持ちが悪い。焼き場もそう、場所も扱いもきれいで丁寧でないといやだなと自分が死んだ気持ちになって思ってしまう。


補足1: かわいそうなこと (H16.12.16)

「あたしゃあそこで焼かれたくない」と言っていた人がこの夏亡くなって、あそこで火葬に付された。

補足2: 火葬場建替のこと  [2010(H22).12.12]

火葬場を安房の屋久杉ランドへ行く道にある屋久杉自然館の先に新築移転するということで、11月から工事が始まっているとのことである。来年9月から利用開始となる予定らしい。


 
 Home   back