屋久島生活の断片・偏見ご免のたわごと編
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No.06  屋久島(6):世界遺産会議に思うこと (H12.05.30)

私が屋久島で田舎暮らしをはじめたのは特に自然がすばらしいとか田舎の暮らし方がいいとか田舎の人はいい人ばかりだからとかそんな理由ではない。自然はそこにあるもので特に思い入れはないし暮らしについてはやはり文明の恩恵の多い都会的な所のほうが自分の好みにあう暮らし方ができる。田舎でも人の悪いのはいるし無自覚で声の大きい独善者がいれば狭い地域では生活に影響を及ぼしやすい弊害もある。ではなぜ私は田舎を目指したか なんとなくである。意識的にではない。だがそうさせたものがある気はしている。

都会的場所での生活は全て人が考え作ったもの即ち文明の所産である。文明生活は自然ではない。だが生老病死は自然である。行きつくところ人は自然を受け入れなければならない。だから年をとってきてより自然を感じ受け入れつつ生活できる場所として選んだのかもしれない。なんとなく文明生活を極めつつある者が自然保護を叫びはじめるのに似ているような気もする。

以上自然という言葉から強引に関連付けた感もある。他にも都会の気持ちに余裕のない競争原理による生活はいやだとか、働かないで気ままに暮らしたいとか、そのためには田舎のほうが生活費が安そうだとか、優秀な人はみな都会に行っているから田舎に行けば優越感を持って生活できるとか、その他下司っぽい理由も否定できないところがあるにはある。もしかしたらこれが本当かもしれないと思うくらい自分ではきちんと説明できる理由がない。ほんとになんとなくなのである。

さて自然遺産のことである。自然の反対は人工かと思う。文明の手が入っていないものが自然ということである。であれば自然を守るということは本来人が手を入れないことである。それなのに自然を自分たちの遺産として守って行くというのはなぜか。文明のシステムの中に自然を組み入れるということではないか。都会的文明生活の中で自然を開発してきたが不都合が出てきたので自然を自分たちの都合のよいように管理しようということではないか。これは環境問題即ち南北問題と同根である。自分たちの文明生活を維持して後進国には自然の保護と経済の発展即ち文明の恩恵を抑制させる先進国と都会的文明生活者がダブって見える。

現に自然遺産会議をみてもそれがわかる。都会的文明生活者が考えたことを地元がやることになっている。国連で世界自然遺産という制度を作った。指定したら世界で守るというわけではない。世界遺産会議ではそれぞれ指定された地域がどういう取り組みをするかが話し合われたという。地元で自然とともに暮らしている人が都会的文明生活者のために彼らが指定した遺産を守る活動をしているわけである。どこか本質とずれている。各地元の中学生なども参加した。地元が本質的遺産保護の主体と仮定しても島の中学生が勉強したって高校大学と殆ど島外へ出て帰ってこないから守る実際の活動には役に立たない。なんかずれている。まあ意識を持った人が日本中に拡散するから少しはいいかもしれないが。

私の考えでは自然遺産を守るのは都会的文明生活者がやらねば成らぬことである。守る即ち人の手を入れぬがよいなら都会的文明生活のシステムを変えることが必要である。島に住んでいる者にも都会的生活者もどきが多いのではないか。多分世界遺産に指定されれば観光客が増えるとか地域開発の金が出るとかそういうことを当て込んで指定を望んだ者が多いのではないか。自然に手を入れず守るというなら人が手を入れることができる都会文明生活のシステムを変えるためその主導者や受益率の多いものほどより多く活動をすべきであるし負担をすべきである。

温暖化とか酸性雨、排出ガスや排水、廃棄物それらと産業、経済との関係 国民や世界の人の意識改革や生活水準の問題 身近では観光業や住民生活、土地開発や地域産業の問題。それらを引き起こす文明生活がいま自然保護を求めているのである。それらの問題解決には自然とある程度折り合ってやってきた地元より都会文明生活の主導者、受益者のほうが責任が重いはずである。

これらの問題はいろいろなレベルで取り組まれていると思うが世界遺産に組み込まれたことで地元の問題にすり替えられないことを願う。地元でお祭り騒ぎをするより汚い都会の会議室にでも実際の能力影響力をもつ都会的文明生活者を集めたらどうか。そこで文明生活のシステムをどう修正すべきか文明の粋を尽くして検討する姿を見てみたい。またその結果を具体的活動として世界に展開する姿をこそ私は見てみたい。


 
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